私は月に数回、伊東を訪れる。
9月、キネマ通り(中央通りかもしれません)にある割烹椿やさんのお弁当を小脇に仕事場へ戻る途中のことだった。
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割烹椿やさんのお弁当
話はそれるが、私はたまたまランチを探しさまよい歩いている時に割烹椿やさんを見つけた。
お店は入ったことはないが、店の外で売っていたてりてりの鰻弁当に一目ぼれして、それを買って帰って仕事場で食べた。
鰻ももちろんおいしかったのだが、副菜の上品な味付けに心を奪われた。
一昔前の私であったら見向きもしなかったような上品な出汁の香る味が今の私には響くのであった。
とろみがかった出汁をまとった蕪や冬瓜や麩にそこはかとなく共感する、そういった境地に、私は立っている。
そういう私の好みのど真ん中に鎮座する割烹椿やさんの弁当を楽しみにいそいそとキネマ通りを歩いていた。
ちなみにこの時のお弁当はかき揚げ弁当。このかき揚げ、ほのかな出汁の味付けがされている。
私の貧弱な舌ではなんの味付けか分からないが、塩分が控えめで何かの旨味でまとめられた味となっている。
キネマ通りの2階から元気よく降りてきた男の子の店員
私が椿やさんのお弁当を抱え、キネマ通りを急いでいると、
「ありがとうございました!」と、元気な男の子がご夫婦と思われる男女の客を見送っていた。
入り口に立てかけられた看板にはランチメニューが書かれていた。
多分、Aメニュー、Bメニュー的な感じで3~4種類あったと思う。
驚くべきはその値段で、700円~800円ほどのリーズナブルな値段であった。
椿やさんのお弁当も捨てがたいのだが、新規開拓もしたいと思っていたので、次回のランチはここにしよう、とその時は心のどこかに留め置いた。
私はノマドワーカーのようなものなので、その土地のランチを探すのを楽しみのひとつにしている。
いつもはInstagram(MATOMETOでアカウントがあります!)にアップしているのだが、今回はそのキネマ通りの2階から元気よく降りてきた男の子の店員のいる店について記事を書こうと思い至った。
日替わりランチ 700円
そして、私はまた伊東に来ていた。
「来月は元気な男の子のいるリーズナブルなランチにしよう」と、心のどこかに留め置いたことを忘れ、心躍りながら椿やさんにむかっていた。
キネマ通りの入り口で看板を見て、はたと気が付いたのだ。
「日替わりランチ 700円」
そうだ、私はいつかここのランチを食べようと心に留め置いていたではないか。
後ろ髪を引かれる思いで椿やさんのお弁当を諦めて、日替わりランチのお店に入ることにした。
しかし、気になることがひとつ。この前の立て看板には何種類かランチメニューが連なっていなかっただろうか。
今日は、「日替わりランチ 700円」のみ。そして、日替わりランチの内容に一切言及されていない。
まあ、いいか。お店に入ってからメニューを見て検討しよう。そう思っていた。
おっとりとしたかわいらしいおばちゃん店主
階段を登っていくと何かちがう気配がしてきた。活気のある声は聞こえてこないし、カロリーのある匂いもしてこない。
あるのは静まり返った静寂と実家のような懐かしさ。ここまで来たら後戻りできない。意を決して店内へ。
「あ、ねえさん、お客さんだよ」と店内でポップらしきものを書いていたおじさんが奥のおばさんを呼んだ。
「あ、いらっしゃい」なぜか気まずそうなおばちゃん。元気な男の子はどこにもいない。
奥の席に座ってね、と奥の特等席を案内される。お客さんは私ひとり。
「あの、ご注文は?」苦笑いをしているようなおばちゃん(私がそう感じただけ)。
あれ、メニューは出てこないのかな、と思ったものの、すぐに空気を読む生粋の日本人のわたし。
「日替わりランチ…」
もう内容がなんでもいいやとあきらめ、一か八かで日替わりランチを注文。
「日替わりランチね」安心したような顔をしたおばちゃん。どうやら正解を導き出せたようだ。
「干物選んでくださいね。サバのみりん干し、アジのひらき、ほっけ、赤魚もあるかな」
実家の母と話しているようだった。
「サバのみりん干しがいいですね」とわたし。
干物と豆腐と餃子
お手製のコースターにのった麦茶とシーザーサラダが出て来て、
「お先にどうぞ」と配膳された。
私はこれでもインスタグラマーの端くれなので、全部メニューがそろったら写真を撮るのだ、という変な使命感から配膳が完了するまで待った。
お店の奥からは干物を焼くにおいもしてこない。それどころか何の音も匂いもしてこない。
ポップを書いていたおじさんもいつの間にか消えていた。
私は藤田嗣治の人生を書いた「異邦人の生涯」を読み始めた。
そして、あー芸術家になりたい、とよくわからない夢を抱いた。
顔をあげるとおばちゃんが小鉢を抱えて配膳していて、私は本を閉じた。
ピーマンとイワシの練り物の炒め物、ほうれん草のおひたし、みそ汁、ごはん。
そして、メインディッシュ3品には、サバみりん、豆腐、餃子!
餃子がたまりません。純和食の布陣に餃子の登場です。
この面子が実家らしさを醸し出します。
味はまさに料理上手な実家の味そのもの。
実家だな、実家みたいな味がするな、と感慨に耽りながら食べ進める。
※あくまでこれは一般的な実家の味であって、私の実家の味ではありません。
私の実家の味でもなければ、あなたの実家の味でもありません。強いて言うならば、このおばちゃんに子供がいれば、その子の実家の味に違いありません。
しかしそれでも、この日替わりランチは実家の味なのです。実家の味のイデアというものがあるとすれば、まさにそれに当てはまる味なのです。
味のレポート
ということでプラトン的実家の味のする日替わりランチ。
ピーマンとイワシの練り物の炒め物は甘辛く、ほうれん草のおひたしは薄味。
「餃子があるから、ポン酢出しますね」とおばちゃんはポン酢とラー油と醤油を置いていってくれた。
お酢が出てこない所に変な好感と親近感を感じる。
豆腐がおいしい。この実家ごはんにはハイスペックすぎる豆腐である。
舌触りが滑らかで、豆の味がする。ざらざら感が少しもない。
そして餃子。実家ごはんにはハイスペックすぎる味。中華屋さんで出て来てもおかしくない。
サバみりんも肉厚で味付けが絶妙。
実家ごはんの皮をかぶったハイレベルな料理たち。
これが700円というのだからすばらしい!
食事処とんとんブーブー
私が食事をしている間、おばちゃんは中に引っ込んでいて全く出てこなかった。
メランコリックな歌謡曲が流れている中、黙々と食事をし終え、「ごちそうさま」と奥に引っ込んだおばちゃんを呼んだ。
「あ、お会計ですか?」と言って、「700円、あ、伝票、あ、先にもらっちゃっていい?」
私が1000円を差し出すと何かあたふたしているおばちゃん。
「おつり持ってくるね」と奥に引っ込むおばちゃん。
その奥には何があるのか。干物の煙を吸い込み、おばちゃんを吸い込み、音を吸い込み、無音の客室を作り出す四次元空間。
おばちゃんは300円持ってそこから出てきた。
「すごくおいしかったです」私は絶対にそのことは伝えようと思ったので、それを素直に伝えた。
うふふ、とおばちゃんは笑っていた。
その後なぜか店の外まで私をつけて来て、階段の下まで見送ってくれた。
「また寄ってくださいね」そう言って手を振っていた。
あ、元気のよい男の子店員の見送りと同じだ、と思った。
私がこの前見たお店と今日入ったお店は同じお店なんだろうか?
元気な男の子店員とこってりした3~4種類のランチメニューとおっとりとした人見知りおばちゃんとさっぱりとした1種類のランチメニュー。
真逆にあるような世界だ。私の勘違いだったのだろうか。
仕事場に帰ってお店の名前を検索してみる。
「食事処とんとんブーブー」ほとんど情報が出てこないではないか。
ちょっと待て、魚がメインのメニューっぽいのに、なぜとんとんブーブーといった豚を連想させるような名前なのだ?
あの元気な男の子は幻だったのだろうか。それとも店の奥の四次元空間に吸い込まれてしまったのだろうか。
気になるのでまた次回も寄ってみようと思う。
みなさんもぜひ行ってみてください。元気な男の子が出るか、おっとりおばちゃんが出るか。