今回は、伊藤金属総業の伊藤 徹郎 (いとう てつお) さんにお話を伺いました。
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はじめに
普段あまり意識することはないものの、皆さんの周りにきっとある蝶番(ちょうつがい/ちょうばん)。今回はそんな蝶番をはじめとした金属加工を行う伊藤金属総業さんにお邪魔してきました。修善寺駅からほど近い柏久保に工場を構えており、機構部品の業界では「修善寺で蝶番といえば伊藤さん」という名の通った存在なのだそうです。代表である伊藤徹郎さんと奥様に加え、会長である先代、専務である息子さんにもお話を伺うことができました。【前編】
伊藤金属総業の成り立ち
創業と歴史について教えて下さい。
創業者は私の祖父なんです。祖父は明治の終わり、東京の生まれで、東京の方で働いていたんですが、その仕事を通じて東京のある金物屋さんと知り合って、そこの社長さんと馬が合ったんでしょうね。恐らく戦時中の頃からだと思うんですけど、その金物屋さんが金属の箱や扉などに使う機構部品を取り扱うようになって、当然それらを作る工場も必要になったということで、その金物屋さんの社長さんから、「伊藤君のところでそんな仕事をやってみないか」ってことで声を掛けられたのがきっかけだったと聞いています。
なぜ修善寺に工場を構えたのでしょうか?
私の祖母方の曾祖父が修善寺の年川という所の出身なんです。その曾祖父が東京に出てから私の祖母が生まれて、その祖母が東京で知り合った祖父と結婚しました。戦時中のことですね。東京は空襲があるということで、曾祖父の地元である修善寺に疎開したそうです。
その頃に先ほどの金物屋さんからのお願いをされて、当初は東京の方へ戻ってその仕事をやりたかったみたいなんですけど、なかなか戻ることができないんで、そのまま疎開先である修善寺で仕事を始めたというのが工場の始まりだったそうです。
正確な年月日は分からないんですけど、戦後まもなくにはこちらで工場の仕事を始めたようです。それからずっと工場は修善寺なのですが、創業のきっかけを作ってくれた東京の金物屋さんは今でも我々の主要な取引先の機構部品メーカーさんとしてお付き合いが続いています。
法人化されたのはいつ頃だったのでしょう?
創業してからは個人事業主として、伊藤製作所という屋号でやっていたようなんですけど、仕事も大きくなって。私の父も家の仕事を継ぐつもりで東京の方へ行ってプレス加工の修行をしてきまして、修善寺に帰ってきた辺りから会社的にも大きくしたいという思いがあったと思うんですね。それで法人化したのが昭和44年、1969年の1月1日だと聞いています。
ところが創業者である祖父が法人化の翌年、昭和45年に60歳で亡くなってしまったんです。その時26歳で長男だった父は事業を長く続けていくかどうかよりも、とにかく弟たちや妹を食わせていくために後を継がざるを得なかったそうです。
総業という名前の由来は?
父には長男である本人を含めて男兄弟が4人いるんです。その兄弟達がプレス加工やプレス用の金型、ダイキャストの鋳物工場、メッキ表面処理と、それぞれ異なる技術の修行を積んできていて、それで様々な金属加工に対応できるという思いで祖父は社名を伊藤金属総業にしたようです。
父をはじめ叔父たちもそれぞれ数年間修行した後に戻ってきて、今でもそういう繋がりで、もう年齢が70半ばを超えてるんですけど、次男と三男の叔父たちには週に2〜3回来てもらって後進への技術継承も含めて働いてもらっています。法人化の当時は叔父たちだけでなく、近所の方が集まって一緒に働いてくれていたっていう形だったみたいですね。
今でも働いてもらっている皆さんは地域の繋がりで来ていただいている方がほとんどです。先ほどの叔父も息子さんと二代で勤めていたり、私の妹夫婦もいたりして、さらに社員さんの中でもお父さんと娘さんで働いてくれている方もいたりするんです。
20〜30代の若い社員さんも6名ほどいまして、技術の継承も行なっています。若い社員さんたちは一度どこかに就職はしてるんですけど、地元に戻って働きたいとなった時に当社を選んでくれたっていう人も多いのかなっていう印象ですね。
ご自身が会社を継がれた際のお気持ちはいかがでしたか?
先代の父もやらざるを得なくてやったということなんですが、私も言ってしまえばそういう感じかもしれないですね。最近は事業承継というと社会的な問題にもなっていると思うんですが、我々やちょっと前の世代だとまだなんとなく家業があれば自然に継いでいく、そういう時代だったと思うんですね。
私も子供の頃は色々夢みたいなものはありましたが、高校に進学する頃には先生からも「お前んとこ工場やってんだから、機械科でいいんじゃねえの」って事で近所の工業高校に行くことになって、機械の勉強をして。ただね、その時はまだ自分の意志で家の仕事を継ごうなんていう思いはそんなに強くはなくて。
高校では機械の勉強をしたんですけど、実は卒業後に情報処理の専門学校に行きまして、全く違う分野ですよね。これまでと違ったものを生み出したいというような気持ちがあって、今で言えばSEですね、コンピューターの仕事に就いてみたいと思って。二年間、専門学校に行ってコンピューターや情報処理の勉強をしました。
当時はまだバブルで就職口はいっぱいあって、友達なんかも誰も苦労せずに就職していたんです。ただ私は東京に残るのではなく地元に帰ってきたかったんですが、こっちにはそういうプログラムをやるような求人というのがなくて、どうしよう困ったなって思っていたんです。
そんな時に、「(創業のきっかけを作ってくれた)東京の取引先のメーカーさんから、うちで働いてみませんか?って声をかけられたけど、どうだ」と父から言われまして、うん、まあそれもありかなと思って。なので、実はそのメーカーさんに6年間勤めていました。
もうそうなったら、自分の口からは「俺は家業を継ぐぞ」とは誰にも言っていないんですけども、まあ自然にそんな形になったということです。こちらに帰ってきたのは26歳の時で、ちょうど先代の父が社長になったのと同じ年齢なんですね、もう30年近く前の話です。その時は、「この会社を何とかしなきゃ」というような強い気持ちこそありませんでしたが、それでも家の仕事は続けて行くんだっていう、自然発生的な責任感はありましたね。
蝶番の世界
伊藤金属総業さんの特徴とは?
主にプレス加工を行う工場なのですが、やはり蝶番を多く作っていますね。蝶番しか作らないと言っているわけではないんですけど(笑)。今では蝶番だけを作ってる所っていうのはどんどんなくなっていると思います。皆さん、色んな事情で廃業されていると思うんですが、専門でやっているところが少なくなっているというのは、うちとしてはそこにチャンスがあるのかなと思っています。
世の中には様々なプレス加工があるのですが、蝶番に関して言えば大概のものが丸まっている形状で、そこに軸が通っているっていう構造になるんですね。その丸めるところに関して、うちの場合はそのための金型を自社の資産としていくつもの種類を持っているんで、金型をその都度作る必要がないんですね。
なので、うちの作り方を知らない金型屋さんなんかに製品を見せると、「だいたい三工程ぐらい、もしかして四工程必要じゃないの?」って言われるんですけど、うちの場合二工程でやってしまうんですね。他のプレス業さんと比べると強みと言っていいのか分かりませんが、違うところかなと思います。
「製品」を作っているっていうことも他のプレス業さんとは少し違う部分じゃないか、ってことに最近になって気付いてきました。この近辺にもプレスをやっている工場はいくつもあると思うんですけど、皆さん自動車関係の部品であったりとか、電気関係の部品であったりとか、とにかく「部品」を作られるところが大半じゃないかと思うんです。
我々の取引先のような機構部品メーカーさんはいわゆるファブレスメーカーなので自身で工場は持っていない所が多いんですね。そのような企業さんとお話をしていると、穴あけや型抜きなどだけではなく、我々のように組み立てまで含めた「製品」を作れる所がなくて困っているんだと言われるので、我々が応えられるニーズがあるのは間違いないと感じています。
他には、我々のお客さんの取引先に販売できる状態の梱包まで済ませて出荷しているというのも特徴の一つかなと思います。つまり、自社ではなくお客さんのロゴが入ったビニール袋に入れて、茶箱に入れて、さらにそれを段ボールに入れて、というようなことをしています。
これまではそれが普通で当たり前だと思ってやってきたんですが、世の中それがあまり普通じゃないっていうことに最近気が付きました。我々としてはお客さんから「梱包までやってもらえますか?」って言われた時に、そんなの普通にやってるから何で聞かれるのかな?ってくらいの感覚だったんですけど。
ファブレスメーカーさんは製造を請け負う工場がなくなってきた時にはプレスをやっている所を探して新しく仕事をお願いすることになるんですけど、今言ったようなやり方がうまく馴染まないと長く続けられずに困ってしまう、という話もお客さんから聞きますね。
ホームページにも載っている単発プレス加工とはどのようなものでしょうか?
単発プレスというのは一つのプレス加工に対して一台のプレス機を使い、一回一回プレスをしていくやり方です。これまで他社の仕事の仕方とか色々見てきた中で、プレス業の中では我々のように単発プレスしかやっていないっていうのは異色であるっていうことに気が付きました。
本当にただ安く大量に作ろうと思えば、単発プレスではなく順送型やトランスファープレスと呼ばれるような設備や金型にお金をかけて、自動的にどんどん流していくという作り方もありますし、中国や台湾、東南アジアとかで大量に安く作るっていうのもあります。
ただ、日本国内で我々が主に納めているような、例えば工作機械や通信機器というものは生産数で言うと何十万個も大量に作るようなやり方だと数的に馴染まないんです。いわゆる多品種少量生産ですね。それで自然と単発プレス加工するようなものばかりになったということなんです。単発プレスの利点としては、そのように数量が少ないものに対応しやすいということや、変更に対して融通が利くということがあります。
例えば四角い形状でかつ穴が空いているものを作りたいという時に、大量生産の場合は外側の四角形を抜くのと同時に中の穴も一緒に抜いてしまうというような考え方がほとんどなんですが、最初からそういう金型を作ってしまうともうそれしかできなくなってしまう。お客さんによっては、ねじの取り付け穴が必要なところもあれば、「いや、うちは溶接でくっつけちゃうからネジ穴はいらないよ」っていうようなところもあって。そんな時には、単発プレスであれば外形を抜く金型と穴を開ける金型が別なので、穴を開ける工程を省くだけで対応ができます。
最近はこのように多品種少量生産のニーズに対応できるプレス業さんっていうのが減ってきていて、どこのメーカーさんも作る所が無くなってきて困っているそうなんです。実際に今週も展示会で名古屋の方へ行ってきたんですが、そこでお話させてもらった大手のメーカーさんも、「多品種少量生産に対応できるところがなくて困ってるんだ」ってことを言われていましたね。
単発プレスだと段取りの回数が増えてしまうこともあるのでは?
一般的にはそうですね。ところがうちの場合は割とプレス機の台数があるんです。東京の方の町工場と比べると田舎で場所的に広いっていうのと、これまであまり外注には出さずに自分のところで全部やろうっていう考えがあったので。
そうすると仕事のやり方も1台のプレス機で金型を取っ替え引っ替えするというような使い方ではなくて、例えば2工程必要なものでも1つ目の工程の金型をセットしたままの状態で2台目のプレス機で2つ目の工程まで加工してしまいます。そこで、もし修正の必要があればすぐに1つ目の工程に戻してやり直しをすることができます。場合によっては3台くらいのプレス機に金型をつけた状態で段取りをしていかないと、最終的に正しく寸法が出せないということもあります。
あとはどうしても急ぎで、といった場合にはその製品に対して一度に複数の工程を複数台のプレス機を並行で動かして作るといったような融通も利くっていうのが、単発プレスを複数台使っているうちの一つの特色かなと思います。
【後編】につづく
■ 会社・店舗案内
伊藤金属総業
〒410-2407 静岡県伊豆市柏久保139
https://choutsugai.jp/