伝統の修善寺和紙の復活を目指す
修善寺温泉街を流れる桂川沿いに少し上流に行くと、紙谷地区があります。「紙の谷」という地名が示すようにここは紙漉きの里です。修善寺和紙の発祥はこの地区であるといわれていて、「修善寺和紙発祥の碑」が建っています。今回、訪問させていただいた紙谷和紙工房は、碑の向かい側にありました。
到着すると、挨拶もそこそこに工房に案内していただきました。
中は、初めて見る道具、テレビなどの画像越しにしか見たことのない道具が並んでいました。それだけで少し、テンションがあがります。
和紙作りの工程は、原材料を刈り取るところから数えると10以上あります。今回、体験させてもらったのは、実際に紙の形にしていく「紙漉き」の部分です。
紙漉きにたどり着くまでには、原材料(楮(こうぞ)や三椏(みつまた)など)を煮たり蒸したり削ったり、そして、白い和紙を作るために漂白し、さらに、塵を取り除いたり、といくつもの過程を経てきています。
まず見本を見せていただきました。難しそうな気もするし、これならできるかもしれない、とも思え、
「これは実際にやってみないとわからないな」
と感じました。
漉き舟(すきふね)と呼ばれる水槽の前で作業は行います。漉き舟の中には、清水、原料、そしてネリと呼ばれるものが入っています。ネリとは、粘剤となるトロロアオイをよく洗い、砕いて水に浸し、粘液にして取り出したものです。原料の繊維を水中で分散させるためにネリが必要になるとのことです。そして気温が高いとネリの効果が低下するため、紙漉きは寒い時期に行うのが適しているそうです。
現代では、化学薬品などを使い、夏でも紙漉きができるようにしているところあるようですが
「私たちは、ネリに化学薬品は使わず、古来のやり方どおり天然素材で行っているので、トロロアオイから粘液がでる寒い時期しか作業ができないのです」
と、紙谷和紙工房の方はおっしゃっていました。
実際の作業は、大雑把に言うと3段階で進みました。初めに、簀桁に紙料液を流しこんで簀の表面に紙料をのせます。次に、再び簀桁に紙料液を流しこんだら、簀桁を縦横に振り動かします。これによって、和紙繊維を整え、和紙の厚みを調整するそうです。そして、紙料液を簀全体に広げながら簀の前面に送り、余分な紙料液を捨てます。
これで一通りの作業が終わりますので、漉いた和紙(湿紙)は紙床に移動しておきます。これを何度か繰り返し、そのつど重ね合わせていきました。
最後に、重ね合わせた湿紙に花びらや葉を乗せて、今回の体験工程は終了です。あとは工房の方にお渡しし、脱水、乾燥をさせて完成になります。
完成したものを後日、自宅に送っていただきました。
体験が終わってから、お話をうかがいました。
修善寺和紙の歴史は古く、『平家物語』に修善寺紙の記述があります。室町時代中期に成立した国語辞典『下学習(かがくしゅう)』には修善寺紙の説明が載っており、少なくとも室町時代前期には発祥していたのは確実です。
また、徳川家康が修善寺紙を大変気に入っていて、その後も、江戸幕府に納めていたそうです。幕府の御用紙として採用されていたわけです。また、日本各地の和紙の里では、技法が修善寺から伝わったとされる地区が多数あり、高い品質を誇っていたことがうかがわれます。
明治時代になると、西洋紙の普及によって需用が減り、生産は中止されてしまいました。しかし、高度成長期を迎えるころ、文化財として価値の高い「修善寺紙」を再興し、伝統文化を継承していこうとする動きが起こります。そして1988年(昭和63年)、地元有志によって設立された「修善寺紙を再現する会」が活動を始めます。修善寺地区の小中学校の卒業生を対象に、自分の卒業証書に使う和紙を紙漉きするという、手作り体験してもらう取り組みを続けてきました。しかし、会員の高齢化によって数年前に活動を休止してしまいます。
それを今年、現在の工房の代表者が復活させました。紙漉きで卒業証書手作りの体験も4年ぶりに復活させることができたのです。
■伝統の修善寺紙、紙すきで卒業証書手作り 修善寺小6年生|静岡新聞アットエス
まだ復活したばかりで、これからさまざまな取り組みをされ始めたところです伝統文化の継承と、言うのは簡単ですが実行していくには大変なこともあると思います。ただ、今回の体験とお話をうかがう中で、この伝統を途切れさせてしまうのはもったいないと感じました。生産された修善寺和紙を使って、修善寺温泉が持つ雰囲気にもマッチする逸品を開発できるようにも思えます。
これからも注目していこうと思います。