会場:ITJ BASE Shuzenji
課題図書:『声だけの人たち』(開高健)
配布資料:『はじめての開高健』(公益財団法人開高健記念会/2023年 集英社)
イベントURL:伊豆読書会公式サイト
はじめに
開高健のことを知ったのは、おそらく大学の授業だったと思う。ここでも何度か書いたが、1時間その作家の生涯について語り尽くす先生がいた。それは文字通り、語り「尽くす」という感じで1時間の授業を終えると1本の壮大な映画を見たような感覚になる授業だった。だから私はその授業のことをずっと覚えている。
今回の読書会の課題図書は『声だけの人たち』。
大学の授業で開高健の生涯を追い、晩年の作品『珠玉』がどのように生み出されたのかを知り、「いつか読まねば」と思いながらも、長い時間が過ぎてしまった。そんな先延ばしを続けてきた私だが、今回は別の角度から開高健の人生をたどる機会を得て、もはや『珠玉』を読まないわけにはいかないところまで追い込まれた。
当日は、公益財団法人開高健記念会の方々も参加され、開高健の魅力や人物像について、たくさんの貴重な話を伺うことができた。
開高健とは
開高健(かいこう たけし)は、小説家・随筆家・釣り師として知られる昭和の異才である。
その多才ぶりに、「開高健とは小説家なのか、コピーライターなのか、ジャーナリストなのか」と議論が起こるほど、多方面にわたる活動を展開した。
23歳で壽屋(現サントリー)宣伝部に入社し、手がけた広報誌『洋酒天国』が大ヒット。
26歳で小説『パニック』を発表すると、翌年1957年には『裸の王様』で芥川賞を受賞し、文壇にその名を刻む。
その後は、ベトナム戦争や釣りの紀行などのノンフィクションの傑作も発表。酒や食に関するエッセイも多く、食通でも知られる。
ベトナム戦争の最前線を取材したルポルタージュ『ベトナム戦記』では、極限状況における人間の尊厳を描き、以後も世界各地を旅しながら「人間とは何か」を追い続けた。
酒を愛し、言葉を研ぎ澄まし、生と死のあわいに踏み込みながら、どこまでも誠実に「人間」を見つめ、表現しようとした作家。
一瞬で情景が浮かぶような鮮烈な表現の数々は、言葉の持つ力を誰よりも信じた作家の証といえるだろう。
『声だけの人たち』を読む
『声だけの人たち』は、戦後を舞台に、複数のエピソードが語られる短編である。
フィクションでありながらノンフィクションのようであり、混沌とした印象を受ける。
「夜なかに、それもひとりで、壁や灯や記憶を相手に飲み、ときどき、ひどい静かな泥酔をする。狂って、文章を書くこともあるが、翌朝、読みかえすと、へどのなかによこたわっていたような気がする」(本文より)
この作品の中には美しい表現がいくつも出てくる。
こんな色鮮やかな言葉の世界に生きた開高健は人一倍世界が美しく、そして人一倍世界が物悲しく見えたのではないかと感じられる。
声だけの人たちには、断片的なエピソードが綴られている。
ある年の晩年の富士山麓一帯の旅行。そこで米兵を相手に「へい、かもん」と「がっでめ」の二言で世界を整理する女たち。
大阪までの鈍行の旅。仕切り板の向こう側で大阪弁の女が話している。アメリカ人の青年と暮らし始め、彼女は欧文脈で話していた。とぎれとぎれの声を聞きながら、彼女とアメリカ人の青年のことを想像するが、ついにその声は消えてしまう。
それからタバコの袋に書かれた中国の思い出話。「大江、白蘭」、「虎邱、日本人」タバコの紙袋に書かれたこれらの言葉の中にエピソードは保存されている。その言葉を見れば、その言葉の中に詰め込まれた事件をありありと思い出す事が出来るのだ。
「虎邱、日本人」のエピソードは、中国の蘇州で日本語、それも大阪弁で話しかけられた、と言う話だ。
短編の最後に、夜汽車の仕切り板から漏れ聞いた若い女の欧文脈の大阪弁と蘇州ですれ違った大阪の人の静かな声が漂っている、と表現されている。
「夜ふけに、一人で、壁や灯を相手に酒を飲みながら、私はこの二人をとくに無数の人物たちのなかからえらびだして考える」(本文より)
彼らに顔はない。あるのは声だけである。
そしてその声は大阪弁の言葉であった。開高健は大阪府生まれだ。
欧文脈の大阪弁、蘇州でふいに出会った大阪弁、それらは無意識のうちに開高健の記憶に融け合い、思い出される酒の相手になったのであろう。
『声だけの人たち』これは『言葉だけの人たち』ともとれるのではないだろうか。
開高健の文章を読むと、彼が現実の出来事をどれほど言葉に置き換えて捉えていたかが伝わってくる。
事象を言葉に変換する――つまり、出来事を記憶に置き換えるとき、映像はこぼれ落ち、声だけが残る。
そうして、顔のない人々が記憶の中で静かに語り続ける。
開高健がタバコの袋にエピソードを書きとめたのも、その声を少しでも留めておきたかったからなのだろう。
彼にとって「書く」とは、失われゆく声を救い上げる行為だったのかもしれない。
『はじめての開高健』より
配布資料『はじめての開高健』(開高健記念会・集英社)は、これから開高作品を読む人のための入門書のような冊子だ。
彼の生涯や文学の背景、作品の変遷がわかりやすくまとめられており、「開高を読む入口」としておすすめできる内容だ。
読書会ではこの資料をもとに、開高のルポルタージュ精神や文学的美意識、そして「書くことが生きること」と重なる姿勢についても議論が交わされた。
印象的だったのは、参加者の一人の「開高健はやっぱり小説家でありたかったのではないか」という言葉だった。
たしかに、大学の授業でも開高健が晩年まで小説を書くことにもがき苦しみ、そしてやり遂げた話を聞いた。
彼はコピーを作り、戦場へ赴き、世界中を旅してルポルタージュを綴った。それはある意味ですべて小説家としての仕事であったとも言えると思う。彼は小説を書くようにすべての仕事をしたとも言えるのかもしれない。
『はじめての開高健』からは開高健への愛が溢れた冊子になっていて、もう開高健を読まないわけにはいかない、という気持ちにさせられた。
おわりに
『声だけの人たち』というタイトルには、どんなメッセージが込められているのか――。
読書会では、参加者それぞれがその意味を語り合った。
私はこのタイトルから、開高健が「声=言葉」を通じて世界をどれほど真剣に見つめていたかを感じた。
世界を映像で捉える人もいれば、言葉で捉える人もいる。
ある人は数式で、ある人は音楽で世界を解釈する。
それぞれのフィルターが記憶をろ過し、「〇だけの人たち」という形で残っていくのだろう。
そう考えると、誰かの記憶の中をのぞいてみたくなる。
あるいは作品に触れるという行為は、誰かの記憶に触れる行為なのかもしれない。
そんなことを考える夜となった。