今回取り上げたのは、芥川龍之介の短編集『貝殻』。
「猫」「河鹿」「或女の話」など15編が収められています。
今回の会場は「gallery kanko」さんとてもすてきな空間でした!


Contents
芥川の晩年
『貝殻』が執筆されたのは大正15年(1926年)12月、芥川が亡くなるわずか半年ほど前のこと。
この頃の芥川は、精神的に非常に追い詰められていた。
神経衰弱による不眠症に苦しみ、1926年の初めには湯河原の旅館・中西屋へ静養に出かけている。その後も療養のため転居を繰り返した。夏を過ぎる頃には、不眠だけでなく幻覚や妄想知覚にも悩まされるようになった。
1927年に発表された『歯車』では、主人公がこう訴える。
「こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」
また、遺稿『或旧友へ送る手記』には、あまりにも有名な次の一文が残されている。
「自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。(中略)少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」
芥川を追い詰めていた、この「ぼんやりした不安」。
まさにその「ぼんやりとした不安」のただ中で書かれたのが『貝殻』という作品だ。
今回は、芥川の晩年という厳しい状況に寄り添いながら、この短編集を読み解いていった。
15編の根底を流れる思想
人と言うものはひとくくりにまとめられた15編を見たら、その15編に共通した意味を見出そうとする生き物である。
あるいは、15編をまとめる側になった場合も、その15編に何らかの意味付けをしようとする生き物でもあろう。
しかし、書く立場になった場合は少し違うかもしれない。
書くという行為、その中でも特に物語を作るという行為は、制御不能な場合が多いような気がするからだ。
きれいに、おもしろく、人々に楽しんでもらうように物語を作ろうと思ってもそうはいかないのだ。
物語を作る行為は、実は作っているのではなく、目の前に現れている心象を言葉に置き換えているだけの場合が多い。
だから大変スピリチュアルな話になって恐縮だが、こちらに物語を制御する権限はなにひとつ与えられていないのが実状である。
物語の中にAとBの選択肢が現れても、執筆者にそれを選ぶ権限はない。
主人公、あるいは登場人物がどんな選択をするのかじっと見守り、選択が実行されたらそれを書き留めるだけなのだ。
だから何て言うか、私が書いたものに意図なんて全くないのだけれど、読んでくれた誰かによって意味づけがされていくのである。
ということはどういうことかお判りであろうか。
書いたものは誰かに読まれて初めて意味を持つということだ。
読んでくれる人が増えれば増えるほど、その物語の意味は多様化し、深遠化していくのである。
だから読書はすばらしい。
と言うのは、もちろん私のかなり偏った主観中の主観である。(太字にして強調しておきます)
『貝殻』は謎解き?
精神にかなりまいっていたであろう芥川にこの15編をひとつの謎解きとして統合する余力があったのだろうか?
他のブログなどでこの『貝殻』について、和歌のテクニックを使った言葉遊びである、とか、【貝殻】からあるキーワードを見つけ出し、15の問答に答える謎解きのような仕組みになっている、などの見解がある。
謎解きと考えればそのような気もするし、そんな謎解きを仕組むような精神的体力があったのかと言われると疑問にも思うようなところがある。
大切なのは読者一人ひとりが15編に埋め込まれた物語を拾い上げ、自分で意味づけし、楽しむということなのではないか。
そしておそらく、その行為こそが芥川の望んでいた正しき読者の姿勢なのではないかとも思ったりする。
だから正解などもないし、恐れることもない。
正々堂々と自分の解釈を語ればいいのである。
その心は中身がない
ということで、私の拙い解釈をご紹介したいと思う。〇〇とかけまして、『貝殻』ととく、その心は「中身がありません」。
15編分、助長的になりそうなのでリズムよく。
1.猫
猫を東京に連れてきたら、鼠を捕まえなくなったという話。
鼠を捕まえない猫とかけまして、『貝殻』ととく、そのこころは、どちらも中身がない。
鼠を捕らない猫=本来の役割を果たさない猫、すなわち貝殻と化した猫。(猫に大変失礼ですね)
2.河鹿
桜の実、笹餅、土瓶へ入れた河鹿十六匹を送ってくる母。しかも後から河鹿の雌を届けるという。その上、雌は雄をみな食い殺してしまうという手紙が入っている。
こちらは、雄+雌=無ということで、生体がない。生体のない貝=貝殻。
3.或女の話
12歳の女の子が別の学校の先生に抱き上げられてはしけに乗せられた。先生は自分の所の生徒とそっくりだったからと謝る。
外見だけで判断される=中身がない。
4.或運転手
ある電車の運転手が赤旗と青旗を見間違えて電車を動かしてしまった話。
赤と青を見間違える=生と死の境界=一歩間違えれば中身の消失=貝殻
(だんだん厳しくなってきました)
5.失敗
何をしても失敗してしまう男の話。最後は役者としてペングイン鳥になり烈しい暑さのために死んでしまう。
これは単純に、生の消失=貝殻。
6.東京人
芸者の帯を巡る細かいやりとりの話。帯が派手過ぎるから、しばらく隠したり、遠慮して安く融通したり、最後は芸者の妹にやったりする。
締める人のない帯はさながら貝殻のよう。
7.幸福な悲劇
互いに愛し合いながら臆病さゆえに想いを伝えられず、男は別の女(3)と、女は別の男(4)と関係を持つ。嫉妬や未練を残しつつ、どちらも現実の関係を断ち切れないまま、心は揺れ続けている物語。
(3)、(4)に対して最初は愛がない状態=貝殻、だったが、あとから感情が芽生えて貝になったとさ、的な感じでしょうか。
貝殻にヤドカリがお引越ししてきたみたいな。
8.実感
殺人犯の独白。彼は、自分が殺した相手が幽霊となって出るならば、腐乱した死骸の姿で現れるほうがまだましだと言う。生前と寸分変わらぬ姿で現れる「生の残像」が彼を苛む。
これは単純に、死骸=貝殻、でしょうか…。
9.車力
少年は空あき箱を積んだ荷車を押して助けようとするが、男に誤解され叱られてしまう。後日、炭俵が落ちても少年は助けようとしない。すると男は炭俵に向かって自嘲するように文句を言う。その姿に、少年は彼に親しみを感じるようになる。
もうこれは、空あき箱=貝殻、でいいでしょうか。クオリティがだんだん落ちてきました…。
10.或農夫の論理
山村の農夫は隣の牝牛を盗み懲役三ヶ月を受けた。出獄後、再び同じ牝牛を盗む。警官に叱責されると、懲役を受けたのだから牛は自分のものになったはずだ、と理屈を述べる。
わからなくもないロジック。
懲役を受けたから盗んだ牝牛は自分のものになる、という論理は明らかに中身がありません。
ですので、中身のないロジック=貝殻、となります。
11.嫉妬
宿屋で番頭や女中が自分に愛想をする姿を見ているときは嬉しい。しかし、後から来た客にも同じように愛想をするのを見ると、途端に嫉妬を感じてしまう――そう語ったのは、普段は温厚で紳士的な男だった。
この場合は「温厚で紳士的」という修飾語が貝殻ですね。
この嫉妬深い男には「温厚で紳士的」な中身はありません。
12.第一の接吻
結婚した男は、自分の過去の恋愛を全て妻に打ち明けることで幸福を確かなものにしたと思っていた。しかし、些細な接吻の経験を数年後に告白すると、妻は裏切りと捉え、夫婦の間に消えない亀裂が生まれる。
この場合は、第一の接吻がこの夫婦をとりなす中身だったわけですね。
その中身がないことを知る=妻が数年後に第一の接吻を知る、ことでこの夫婦は中身のない夫婦=貝殻になってしまいましたとさ。
13.「いろは字引」にない言葉
留学中に事故で意識を失った男は、譫言で英語を話していたと聞かされ、それを自信に変えて英語学者として成功する。しかし彼の母は「日本語を知り尽くしたから今度は『いろは字引』にない言葉を学んでいる」と言い、息子の学問への信仰をどこか空しく語る。
息子は名高い英語学者になったが、一方で母親には『いろは字引』にない言葉を習っていると映っている。
もう分かりますね。『いろは字引』にない言葉=中身のない言葉=貝殻のような言葉。
お母さんには息子が話す英語は理解できません。
そんなお母さんから英語は貝殻のような言葉に映ったのかもしれません。
14.母と子と
青年は母が元芸者で、今は北京で料理屋を営んでいると知り、再会する。しかし母の上辺だけの愛想に失望し、互いに素直になれないまま別れる。母は息子を追うがすれ違い、息子もまた母の“白粉と金歯”に複雑な感情を抱えつつ列車に揺られる。
これはもちろん、“白粉と金歯”が貝殻ですね。
お母さんとの美しい思い出=中身がなくなって、“白粉と金歯”の印象=貝殻ばかりが残る。
互いの思いがすれ違ったまま空虚に終わってしまう物語自体も中身がない貝殻的物語と解釈できます。
15.修辞学
三等客車で、大工風の男が海を眺めながら仲間に「浪がチンコロのようだ」と言う。
中身がなく、拙い「浪が子犬のよう」という表現、さらに「チンコロ」というある一定の人にしか伝わらない方言を使っている比喩表現に対してつけた大層なタイトル『修辞学(=巧みな表現をする技法や法則を研究する学問)』とはまさに貝殻的ですね。
おわりに
というわけで大変頭を使いました。最後までお読みいただいたみなさま、ありがとうございました。
本文はこちらから読めますよ。
みなさんもみなさんなりの『貝殻』解釈を見つけてみてくださいね!
今後のスケジュール
11月5日は、修善寺温泉朗読会「月と珈琲と文豪と」-漱石さん、月がきれいですよ- 朗読と文学ゆるトークが楽しめます。
12月7日は、漱石忌(12月9日)に合わせて、夏目漱石『夢十夜』をテーマに読書会を開催いたします。
最新情報は、伊豆の読書会・文学関連イベント情報サイト「伊豆読書会」をご確認ください。