修善寺温泉読書会の3月の課題図書は、ヘミングウェイの名作『老人と海』。

この物語、その昔、学生の頃に読んだ記憶がある。その記憶はひどく粗末で恥ずかしいものだけれど、「老人が大きな魚と格闘して、釣れるんだけど、結局、その魚はサメに食べられちゃった」くらいのものだった。
ヘミングウェイの文体は「省略の文体」とも言われるシンプルな表現で知られている。簡素で飾りのない文章は、物語をスピーディーに追うことができる。しかし、本当にヘミングウェイを味わおうとするならば、私たちはそのシンプルな言葉の並びを慎重に追い、その単純な言葉の下に隠れているもっと深遠な感情や哲学を読み取らなければならない。
氷山の一角理論
ヘミングウェイには「氷山の一角理論」というよく知られた主張があって、『午後の死』という文章のなかで、「もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、水面下に隠された八分の七の部分に存するのだ」と書いている。
そして、ヘミングウェイ作と言われている世界一短い小説で知られているのがこちら。
For sale: baby shoes, never worn.
赤ん坊の靴、売ります。未使用。
たった6語で構成されているこの文は、深い物語とそこはかとない悲しみをはらんでいる。
この世界一短い小説から、ヘミングウェイの言う「氷山の一角理論」というのがどのようなものかが理解できるだろう。
この文章は、作者が主題を熟知しているならば、重要で決定的な出来事を口にしなくても、その周辺の要素を語るだけで真実が浮かび上がってくることを証明している。
ということで、ヘミングウェイの文章を読むには注意深さと慎重さと謙虚さが必要だ。
まだ未熟な学生時代の私がその深遠さに気が付かずに、老人と海を読み飛ばし、八分の一だけの粗末なあらすじしか記憶に残っていないのも納得である。
そして、学生時代から時を経て、充分大人になった私は今一度、老人と海に向き合うのだった。
残りの八分の七を味わうために。
釣りと内省
「みなさんは釣りをしますか?」と参加者の一人が質問した。
釣りをする人と、しない人がもちろんいた。そして私は釣りをしない側の人間だ。
釣り糸の先は海の奥深くに垂れ下がっていて、海の中の様子は釣り竿を通じて想像するしかない。それは物語の中にも出てくる。サンチャゴもまたロープを通じて海の中の魚の動きを把握し、魚と文字通り「水面下」で壮絶な戦いを繰り広げるのだった。
その見えない何かを、釣り竿の振動などの些細な情報をもとに、慎重に手繰り寄せる作業は、自分自身を内省する作業に似ていると、釣りをする側の参加者は表現した。
こうして振り返ってみると、ヘミングウェイを読む作業もこれに似ている。シンプルな文章という些細な情報をもとに、見えない何かを、たとえば老人の孤独や誇りや海への愛情など、を自分自身に手繰り寄せ、その感覚を手にし、味わう。これがヘミングウェイ流の釣り的読書体験なのかもしれない。
The Old Man and the Sea
彼は老いていた。(石波杏訳)
He was an old man
老人と海の英語のタイトルはとてもシンプルだ。タイトルの「The Old Man」がなぜ「An Old Man」ではないのか、“ある老人”ではなく、“あの老人”という意図からなのだろう。これは調べてみると、「The Old Man」とすることで、ただの老人ではない、ある種神話的な存在感を帯びてくる感覚なのだそう。英語ネイティブの感覚だと、「聖書っぽい」響きがあると言われているようだ。
「the Sea」という表現にも「the」がついている。「the」がつくことで、“海”はただの場所ではなく、人格を持ったような存在感を帯びてくるらしい。それは老人にとって毎日向き合ってきた海であり、挑み、祈り、語りかける対象としての“海”だ。ここの「the」についての感覚はどれだけ英語を勉強しても私には分からない感覚なんだろう。
このタイトルにもヘミングウェイの「アイスバーグ理論」が当てはまると思う。
タイトルの素朴さが物語の象徴性を引き立てていて、海の中に潜んでいる奥深い要素を上手く示唆している。
老人は釣りを通じてしか人生を生きられない、陸ではどんなに孤独で惨めでも、海へ出て、釣りをやらずには生きていけない。釣りそのものが文字通り彼の生業であり、生きる原動力なのだ。
釣りを通じて、彼は人生を語り、人を愛し、海を愛する。
“But man is not made for defeat,” he said. “A man can be destroyed but not defeated.”— Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea
「だが人間は、負けるように造られてはいない」彼は言った。「打ち砕かれることはあっても、負けることはないんだ」
これを心に書き留めておこう。
老人とカジキの戦い、にちなんだ作品として、宮沢賢治 なめとこ山の熊、を参加者にご紹介いただいた。こちらは熊とマタギの戦い。このあと読んでみたい。
母なる海
彼にとって海は「ラ・マール」であった。海を愛する人々は、海のことをスペイン語の女性形でそう呼ぶ。(石波杏訳)
海が女性なのか、男性なのか、読書会ではここら辺にも話は及んだ。
この性別のないものに性別を当てはめるタイプの言語については、もうその感覚は日本語話者の私にはほとんど分からない。
そんなお手上げ状態の中、参加者の一人が三好達治の郷愁という詩を教えてくれた。
郷愁
蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
三好達治
漢字の海をばらすとその中には母と言う字が組み込まれている。
一方、仏蘭西語で海は「mere」で母は「mer」と言うため、「mere」の中に「mer」が含まれている。
日本語でも仏蘭西語でも海の中に母の要素が発見できる。
ということで、漢字文化圏にも海と母、海と女性性の連想を発見することができる。
海を見て、母のようだ、と感じる感覚は分からなくもない。
おわりに
今回は翻訳本を取り上げていただきました。
原文にあたる英語力はまだまだですが、やっぱり原文をあたると言葉の違い、文化の違いはもちろん、言語による思考方法の違いも思い当たり、とても深い学びになります。
日本語で思考すると日本語に縛られてしまいますが、英語、スペイン語、フランス語など他の言語をかじるとかじった分だけ、思考が自由になるような気がして楽しいです。
今回も楽しい読書会となりました。
お茶を飲みながらゆったり読書をして、感想を言い合う時間は何物にも代えがたい豊かな時間ですね。

次回は、4月18日(金)梶井基次郎「桜の樹の下には」です。
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修善寺温泉読書会
修善寺温泉場のどこかを会場に、月1回のペースで開催している読書会です。課題図書を当日読んで感想を言い合ったり、好きな本を紹介しあったり…開催月ごとに内容が変わります。
聞くだけ・居るだけ参加の方も大歓迎です!
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