雨に濡れた子猫のような2人の子供を連れ、ビーチのすぐ脇に建つ休暇村南伊豆のエントランスをくぐった。
非接触型の体温計で検温し、アルコールスプレーで除菌をした。これらの感染症対策の一連の作業ももうだいぶ慣れたものだ。
「日帰り温泉に入りたいんですけど」
そう言うと、フロントの男性はかすかな困惑をほほ笑みの中に隠し、
「13時からなんです」
と申し訳なさそうに言った。
なるほど、時刻は12時30分で、30分ほど待たなければならなかった。
雨に濡れた子猫のような子供たちがガタガタ震えているのを見て、フロントの男性は憐れみを感じてくれたのだろう、
「あちらのお席は暖かいですから、あそこでお待ちになられたらいかがでしょう」
と提案してくれた。海側のロビーは、正午の太陽のまっすぐで純粋な日差しに包まれていた。
わたしとその濡れた猫たちは海側の洒落たロビーで暖を取ることにした。
「寒くなかった?海」
わたしがそう聞くと、濡れ猫たちは顔を見合わせて笑った。この子たちは時々、この世でたったひとつの組み合わせのように美しい調和を見せることがある。
「寒いからいいんじゃん、ねー」
二人は声を合わせてそう言う。そして、くすくす笑いをしながら、鬼滅の刃とか、さっきの海で拾った貝殻の話とか、海辺を走り回っていた犬のこととか、そんなことをおしゃべりし始める。私はなんだか仲間はずれにされた気分になったが、だまって彼らのおしゃべりに耳を傾けた。
休暇村南伊豆「鈴の湯」
そのうちに13時になり、温泉に向かうことにした。温泉は3階にある。
ここで日帰り温泉の概要を紹介したい。
時間:13:00~15:00(14:30受付終了)
料金:大人800円(中学生以上)、子供400円(4歳以上)
バスタオルはついていないので、フロントで申し出る必要がある。レンタル料は200円。
シャンプー、コンディショナー、ボディソープは浴室に備え付けあり。
パウダーコーナーには、ドライヤー、化粧水、ヘアケアオイルなどの備え付けあり。
私が温泉に入る際にないと困る3種の神器(大げさ!)のようなものがある。
①拭くもの(タオル)
②洗うもの(せっけん)
③塗るもの(クリーム)
とりあえず、この3つがあれば安心して温泉に入れる。
どれかひとつでもないとないものの分だけ湯上りの満足度が低下してしまう。
例えば、備え付けのタオルがあると思い込んでフロントでタオルを借り損ねてしまったり、体を洗うせっけんのようなものが置いてなかったり(これはそんなダメージはない)、保湿するものがなかったりする。そうすると、体が乾くまで湯船の外でぼーっとしたり、体からせっけんの香りが失われてしまったり、顔がパリパリになってしまったりする。
でも安心していい。休暇村南伊豆にはこれら3つともそろっている。
温泉は、ナトリウム・カルシウム塩化物泉。塩辛い味がするので、子供たちはサツマイモを海水につけることを発見した海辺の猿のように手のひらをなめて、「しょっぱい!」とはしゃいでいる。
浴槽は、内湯、露天風呂、壷湯(2つ)。
壷湯は陶器の浴槽で、ジャグジーがついている(!)。この手の陶器の浴槽は頭と足をふちにかけるとちょうどぴったりとするので、温度が温めだと一生抜け出せなくなってしまう。
露天風呂は、庭園露天風呂と名付けられており、東屋のような屋根がついている。美しい庭園の間をぬって、遠くの波の音を潮風が運んでくる。正午の太陽を反射させ、温泉の水面はキラキラ小さな光を瞬かせている。昼間の露天風呂ほど最高なものはない。
開放感のある景色と公然わいせつ罪
海辺の温泉に入ると海を眺めたいという気持ちになるが、そこには目隠し問題が立ちはだかる。というのも見晴らしをよくすれば海は見えるが、海辺の人々からも我々の裸が見えてしまうからだ。見晴らしのよいインフィニティ的温泉は、よほどの高層階に作るしかない。いずれにせよ3階では海辺の人々から裸が丸見えになる。このように開放感のある景色と公然わいせつ罪はトレードオフの関係にあるので、どうバランスを取るかは温浴施設にとって非常に難しい問題である。
入浴の一連の作業の中で一番至福の時間を感じるのは湯船につかっている時である。そして、その次は湯上りの休憩時間であろう。そのため、大抵の温浴施設には休憩室が用意されている。
休暇村南伊豆の休憩室は洋風である。大きな窓辺にソファが置かれ、弓ヶ浜を望む。
コンセントもあり、多少恥をしのいで電源ケーブルを伸ばせば、ワーケーションも可能である。ただ日当たりがよすぎるので、景色を取るか、日差しから身を守るか、どちらかの選択を迫られるだろう。
休暇村南伊豆の休憩室には伊豆が舞台となった本が置いてある。温泉から上がると、子供たちにアイスとジュースを買い与え、大きなソファに横になった。休憩室の本棚の伊豆コーナーに吉本ばななの「TSUGUMI」を見つけると、何だかとても懐かしくなり、その本を読み始めた。
TSUGUMI
読書というものは不思議なもので、あらすじや登場人物のことなんかはすっかり忘れてしまうのに、物語の中に感じた「印象」のような「啓示」のような「おり」のようなものだけを思い出すことがある。
私が中学生の時、「TSUGUMI」を読み、その中から取り出して、長い間「印象」として持っていたものは、病弱な子供が世界中の国旗を集めた柄の枕を使っていて、病気で辛いときにはその国旗のひとつひとつを眺めていた、というエピソードだ。
国旗を眺めたからと言って元気になったとか、救われたとか、そういう話ではない。ただ、つらい病状の時には目の前にあったその国旗を眺めていた、という話だ。
誰にでもそういう記憶はあるだろう。風邪で高熱を出したときなどに目にする光景だ。そこで見た光景に救いを求める人などあまりいない。それでも多くの人は高熱の合間に寝床から目に見た光景を心のどこかにとどめているものだと思う。あるいは、望むと望まないに限らず、高熱の時に見た景色は自然の摂理として記憶のどこかに刻まれているものである、と私は思っている。
枕のエピソードに差し掛かる前に子供たちは休憩室を走り回り、騒ぎだしたので、読書を中止し、家に帰ることにした。
家に帰り、くたくたになった子供たちが早めに寝てしまうと、無性に「TSUGUMI」の続きが読みたくなった。しかし、本棚をいくら探しても「TSUGUMI」は見つからず、「キッチン」が2冊見つかっただけだった。
後日談であるが、とうとう私の本棚から「TSUGUMI」は見つからなかった。本棚どころか、ブックオフやAmazonの中古を探したが、どこにも見当たらなかった。
最終的には町の本屋へ行き、新品の「TSUGUMI」を手に入れた。
ある日、職場の休み時間に「TSUGUMI」を読んでいると、目の前のハンサムな男性が素敵な笑みを浮かべ、「懐かしい本を読んでいますね」と声をかけてきた。
私は、「懐かしい本ですけど、今となってはどこにも中古本はないので、私が読んでいるのはまっさらな新しい本なのですよ」と変なことを言ってしまった。
目の前の男性は困惑しつつもさわやかに微笑みを返してくれた。
でも、それは本当のことなのだ。私の本棚から古い「TSUGUMI」が消えてしまったように、今この日本からも中古の「TSUGUMI」は消えてしまっているのだ。そして、唯一古い「TSUGUMI」の単行本が存在しているのは日本中探しても休暇村南伊豆の伊豆コーナーの本棚だけなのである。私はこの事実を目の前のハンサムに伝えようかと迷ったが、これ以上ハンサムを困らせるわけにもいかないので新品の「TSUGUMI」の文章に目を戻した。